コラムコラム

塵に還る人間

2026.06.01

松岡正剛の千夜千冊1538夜に『塵 ゴミムシダマシ騙』という一冊がある。小檜山賢二が撮影したゴミムシダマシの写真集を紹介した回なのだが、ページをめくるうちに不思議な感覚に襲われた。そこに写っていたのは、私たちが普段なら見過ごしてしまうような小さな虫たちである。しかし、その姿は驚くほど奇妙で、驚くほど美しかった。角のような突起を伸ばすもの、鎧のような殻をまとったもの、まるで異星の文明が生み出した工芸品のような造形をしたものまでいる。それらはみな一センチにも満たない小さな存在なのに、写真の中では恐竜や怪獣よりも雄弁に、生命の不思議を語っているように見えた。

 

松岡は彼らを「生命と世界の〈あいだ〉に君臨する、もうひとつの寡黙な主人公たち」と呼んでいた。私はその言葉を読んだとき、生命の歴史を語る主役を取り違えていたのではないかと思った。私たちはどうしても大きなものに目を奪われる。恐竜の絶滅、人類の誕生、文明の発展、産業革命。歴史も進化も、大きな出来事の連続として理解したくなる。しかし、本当に世界を支えてきたのは、こうした小さく目立たない存在だったのではないだろうか。

 

そんなことを考えているうちに、私の意識は虫から塵へと移っていった。

「塵」という言葉には不思議な響きがある。私たちは塵を価値のないものとして扱う。机の上に積もれば払うし、部屋の隅に溜まれば掃除機で吸い取る。しかし宇宙の歴史を眺めると、その取るに足らない塵がまったく違う姿で見えてくる。恒星は永遠に燃え続けるわけではない。生まれた星はやがて寿命を迎え、ときに超新星爆発という壮絶な最期を迎える。そして、その残骸は微細な粒子となって宇宙空間へ散らばっていく。宇宙塵である。

 

その粒子の一部は、小惑星や彗星に付着しながら何億年もの旅を続け、やがて地球へ降り注いだ。近年では隕石の中からアミノ酸をはじめとする有機物が見つかっており、生命の材料の一部が宇宙から運ばれてきた可能性も指摘されている。生命は地球だけの閉じた物語ではなく、宇宙との往来のなかで育まれてきたのかもしれないのである。そう考えると、宇宙塵は単なる塵ではなくなる。それは遠い昔の恒星の記憶を抱えながら漂い続け、結果として生命の材料を運んできた運び屋だったように見えてくる。

 

もちろん塵に意志はない。どこかへ届けようと思ったわけでもないし、生命を誕生させようと計画したわけでもない。ただ漂い、流され、ぶつかり合いながら移動しただけである。それでも結果として何かを運んでいた。この無自覚な運搬というあり方に、私はどこか惹かれる。なぜなら、地球の上にも同じような存在がいるからだ。

 

ゴミムシダマシたちは、自分が生命史の一部を担っているとは思っていないだろう。オサムシもマイマイカブリも、自分が日本列島の成り立ちを身体に刻み込んでいるとは知らないはずだ。しかし彼らは、長い時間のなかで環境の変化を引き受け、その痕跡を身体の形として残してきた。山が隆起すれば山のこちら側で生きるしかない。海峡ができれば向こう岸へ渡れない。飛べないまま、遠くへ行けないまま、その土地にとどまり続ける。すると長い年月のなかで少しずつ違いが積み重なり、やがて別の種として見分けられるようになる。彼らは何かを目指して進化したのではない。ただ居続けたのである。そこに生命の面白さがある。

 

私たちは進化を前進の物語として理解したがる。単純なものから複雑なものへ、下等なものから高等なものへという階段を思い描く。しかしゴミムシダマシを見ていると、生命はそんなに整然としたものではないように思えてくる。あるものは角を伸ばし、あるものは殻を変形させ、あるものは奇妙な模様を獲得する。その姿は完成形というよりも、無数の試行錯誤の集積に見える。

 

生命は完成を目指していたのではなく、その場その場でなんとか生き延びる方法を探していただけなのではないか。生命の初期段階を支えたと考えられているRNAも、完璧な複製装置ではなかった。コピーエラーは起きるし、失敗も起きる。情報を正確に保存しようとする力と、変化してしまう力がせめぎ合う。その不安定さを抱え込みながら、それでも生命は続いてきた。もし生命が完璧を求めていたら、これほど多様な世界は生まれなかっただろう。

 

失敗を排除しなかったからこそ、多様性が生まれた。揺らぎを抱え込んだからこそ、変化に対応できた。ゴミムシダマシの異様な姿は、その長い試行錯誤の履歴書のようにも見えてくる。そう考えていくと、人間だけが特別な存在には思えなくなってくる。

 

私たちは効率を求める。無駄をなくそうとする。速く、多く、正確に成果を出そうとする。しかし生命の歴史を振り返ると、そこにあるのはむしろ寄り道であり、遠回りであり、失敗の連続だった。地球は四十六億年をかけて現在の姿になり、生命は三十八億年以上の時間をかけて多様性を育んできた。その気の遠くなるような時間の厚みに比べると、私たちの時間感覚はあまりにもせっかちである。

 

空を見上げる。

そこには今も目に見えない宇宙塵が降り続けている。

足元を見る。

そこにはゴミムシダマシたちがいる。

 

その視線を何度か往復しているうちに、宇宙と地球、生命と人間がひと続きの流れの中に見えてくる。宇宙塵も塵虫も、自分が何を運んでいるのか知らない。それでも何かを受け取り、何かを次へ手渡してきた。考えてみれば、私たちもまた同じなのだろう。本を読み、言葉を交わし、記憶を受け継ぎ、知識を伝える。その営みの一つひとつは、自分では意識しないまま誰かへ何かを運ぶ行為になっている。だから人間もまた、宇宙塵やゴミムシダマシと同じく、小さな運び屋の一人なのかもしれない。

塵から生まれた私たちは、今日も何かを運びながら生きている。そして運び終えたあとには、また静かに塵へ還っていく。その長い受け渡しの連続のなかに、生命という物語があるように思うのである。

奥富 宏幸
\この記事を書いた人/ リーダーシップ&キャリアデザイナー

奥富 宏幸 - Hiroyuki Okutomi -