コラム
2021.09.16
読書の秋ではないですが、最近ヨシタケシンスケさんの「それしか ないわけ ないでしょう」を読みました。
「りんごかもしれない」が有名ですよね。絵本ですが、大人でも十分考えさせられる内容です。
すぐに結論を出したがる最近の世の中の風潮を危惧していますが、「それしか ないわけ ないでしょう」と考えると、心にもゆとりが持てるのではないでしょうか?じっくりと辛抱強く考える、待つ、支える、見守るということにも意識していきたいですね。
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今日は、「正解」と「間違い」について少し考えてみましょう。
普通なら学校で大きな声であいさつをすることが「正解」と指導されますが、コロナ禍でマスクをしている中ではあいさつをしなくてもしなくても問題ありません。そう考えると、「正解」というのは社会の同調圧力が向かう方向性なのかもしれません。
今は、「正解」という記号が世の中に増えすぎています。
結果として弱者、失敗、異端、異常などが排除されるような構造になっていますが、大きな視点でとらえると、その原因は未来を安易に想像しやすくなってしまったことにあるのではないでしょうか?
技術が発達して、人々の生活が便利になり、答えらしきものが増えると、答え探しに躍起になる。でも、自分の「答え」も、そもそも「問い」も持ち合わせていないので、不安になり余計に他人を攻撃してしまう。そんな感じだと思います。
世界がインターネットで表面的にはつながってしまったことで、かつては存在していた身近な共同体(家族・地域・会社)内での理解や共存共栄の感覚が薄れてしまっている気もします。
また、理想の状態や結果を皆で共有できていないことが、「間違い」という概念を生み出しているとすると、「正解」は個人の意志の方向性とも言えると思います。社会が向かう方向性と、自分が向かう方向性、どちらも「正解」の出発点ではあると思います。でも、それが「正解」にはなりえません。
「正解にする」と「正解になる」の違いもポイントだと思います。
前者は、自分が選んだこと、自分が決めたことを「正解」にしていく。そのためには、決断や忍耐や寛容が必要でしょう。後者は、自分の努力の結果かあるいは運命によって、そう思えてしまうコトです。いろいろ困難や障害があっても、最終的にはその状況を受け入れるということですね。
「正解」の反対とされる「間違い」はどうでしょうか?
「間違い」という言葉にはマイナスのイメージがありますが、「間」を除いて「違い」という言葉に置き換えるとだいぶ印象が変わるように思います。
「あなたの考えは間違っている。」
「あなたの考えは違っている。」
「間」をとるだけでも、頭に張り付いたイメージが取れるのは不思議ですよね。あるいは、「間違い」を「場違い」と言い換えてもいいかもしれません。
「あなたの考えは、場違いだよ。」と。
間が違う、場が違う、タイミングが違うだけなんですよね。
最後に、・・・
「間」というのは、私たちが生きるために大切なことだと気づきました。
時間
空間
そして、
人間です。
こんな風に、私たちが普段「正解」「間違い」と思っているものは、とても曖昧で適当なものだと思っておくと、もっと自由に、もっと創造的に人生やビジネスを謳歌できるのではないでしょうか?
追伸:
「正解」の話の流れで、RADWIMPSの「正解」を思い出しました。NHKの番組で18歳が1000人集まって合唱した動画ですが、合唱にも歌詞にも心に響くものがありました。ぜひご覧になって下さい。
https://m.youtube.com/watch?v=xKjFYKWCDas&t=325s