コラムコラム

「生」を感じるための「死」

2020.06.30

人は簡単には死ねません。

 

でも、どこかで今までの自分をリセットしたいという思いがあります。その欲求を満たすために、余分な買い物をする、食べ過ぎ、飲み過ぎる、ノウハウや情報を過剰にインプットする、飽くなき所有欲と自己顕示欲に駆り立てられるのです。

 

そして、どこかの時点で我に返り、後悔します。

 

「どうして、こんなことをしてしまったんだ・・・」

「分かっているけど、またやってしまった・・・」

 

そんな言葉を繰り返します。

 

その一連の行為は、「過剰」による死を経験することでもあると考えることができます。

簡単に死ねないので、「過剰」による死を求める。即物的な痛みと快楽は、一度味わうとなかなかな手放せないということです。

 

 

以前、マレーシアの空港でステーキとフレンチフライを、表現は悪いですが、養豚場のブタのように食い荒らす欧米人がいました。

 

明らかに食べきれない量の食事を「食糧」としてか見ていないのだろうか、残った食事は、何の”尊厳”もなく捨て去られていました。彼らにとって、それが「死」を経験する儀式のようでもありました。

 

他方、私がホームステイしたフィリピンの家庭では、家族全員が揃って、白米、魚、もう一品という質素な食事を毎回頂きました。普段は滅多に食べないマンゴーやメロンを外国から来た私のために惜しげもなく出してくれました。

客人のための「心からのおもてなしの一品」だったのかもしれません。ホストファミリーのお母さんが、「もっと食べなさい」と何度も私に言ってくれましたが、その言葉にとても”愛おしさ”を感じました。

同じ食事でも、彼らは「生」と「愛」を自然と感じる場なのでしょう。

 

生きることは死ぬことでもあるし、生きることは善く生きることでもあります。あなたは、どちらを選んで生きていますか?

奥富 宏幸
\この記事を書いた人/ リーダーシップ&キャリアデザイナー

奥富 宏幸 - Hiroyuki Okutomi -