コラムコラム

「責任」という言葉を使う責任

2021.07.08

いよいよ東京五輪が近づいてきました。一昨日、私の職場がある埼玉県狭山市にも聖火リレー隊がやってきました。選手たちを応援したい気持ちがある一方、コロナウイルスの感染拡大への不安もあり、なんともスッキリしない気持ちでいます。

 

そもそも五輪をやるのか、やらないのか?
やる場合は、いつまでに、何が決まっていれば、
どういう条件で開催するのか?

 

をもうそろそろ明確にしてほしいと思います。

 

国民、選手、スポンサー、政府、IOC、東京都の思惑は異なりますが、東京五輪を通して実現したいことを何だったのに立ち返り、開催する場合は国民の命を最優先にしてほしいと思います。仮に無観客で開催する場合は、ネットや別の応援方法で盛り上げる等、開催の機運をもっと高めてほしいです。

 

*

 

先月の国会答弁で、

 

「五輪開催の責任者は誰ですか?」

 

という質問がありましたが、昨今は「責任」というものについて考える事が多いです。

 

政府に限らず、芸能人や会社の不祥事、SNSでの炎上を含め、何か問題発言、問題行動をとったときに、メディアや世間から「責任をとれ!」といった言葉をよく聞きます。

 

 

  • 責任はどのように生まれるのか?
  • 責任と無責任の境目は?
  • 無責任な人とはどういう人か?
  • 責任をとるとは何をすることか?
  • 責任と義務、約束の違いは?
  • 責任と意志の関係は?

 

そんな問いが頭に浮かんできます。

 

 

責任にも能動的なものと受動的なものがあるように思います。前者や大義や約束、後者は義務に通じるかもしれません。どちらの場合でも、

 

  • 自らの意志や覚悟に向き合えているか?
  • 互いの信頼関係ができているか?

 

が、キーになると思います。

 

 

 

責任の所在を個人に向けるか、組織に向けるかという問題もあります。

 

前者は、とりあえず世間への格好はつきますが、問題は組織全体の構造から生まれているので、根本的な解決にはなりません。

 

後者は、制裁金や懲罰で責任を取らせることが多いですが、これまた問題の根っこはうやむやのままになりがちです。

 

重犯罪ならともかく、「誰かが責任をとらなければならない」という風潮が社会にはびこっているようにも感じませんか?「責任」という言葉が独り歩きしていて、そのことを許す社会の危うさを感じます。

 

犯人や仮想敵を探し、いじめて、それで終わり。それこそ無責任な行動です。問題への責任をとることは大切ですが、
次に問題をおこさないようにする環境作りに精を出すことも同じくらい必要なことです。責任ばかりとっていては、新しい挑戦への機会も失われてしまうのではないでしょうか?

 

欧米ではビジネスで1度失敗しても、セカンドチャンスを応援する仕組みがありますが、日本では1度失敗したら終わり、という空気が漂っています。新しいことに挑戦しようにも、挑戦をしていない部外者(ルサンチマン)からの圧力に負けそうになるのは、本当に残念なことです。そういう空気感を変えていきましょう!

 

*

 

いろいろな問いが巡りますが、今日お伝えしたかったことは、「責任」という言葉を使う影響をよくよく考える必要があるということです。その言葉を使う「責任」を本当に分かっているのか、ということです。

 

「責任」という言葉が、世の中をがんじがらめにし、つまらないものにし、混乱させているように思います。そんな空気に流されずに、「責任」の意味をよく考え、大切な人の「責任」もいっしょに背負っていく、そんな気概を持って生きていきましょう。

 

 

お子さんや社員にも、

 

「自分の行動に責任を持ちなさい」

 

と言うのもいいですが、

 

「誰かの行動に責任を持ちなさい」

 

と言える人間でありたいと思います。責任ある大人であるためには、何をしていく必要があるでしょうか?

 

奥富 宏幸
\この記事を書いた人/ リーダーシップ&キャリアデザイナー

奥富 宏幸 - Hiroyuki Okutomi -