コラムコラム

アフターコロナの世界とは?

2020.06.29

どこもかしこも新型コロナウイルスの話題ばかりです。

 

日本の感染者数は海外と比べると低いのは検査体制の問題なのか、政治的思惑があるのかは定かではありません。イギリスでは、「収束」までに2年要すると発表しているのを見ると、まだまだ世界での混乱は続くと思います。確かめようのない情報の真偽に翻弄され、結局自分ではマスクを買い占めることくらいしかできない人が増えていくことが心配です。

 

しかし、その混乱に振り回されて右往左往しているだけで何も変わりません。真のリーダーやビジネスの強者というのは、この困難の間にも冷静に状況を俯瞰して、新たな挑戦に向けて準備していると思います。

 

ところで新聞や雑誌などを読むと、「コロナの脅威が去った後の世界はどうなるのか」といった風潮の記事が見られます。テレワークや時間差通勤といった働き方改革が大きく進むとか、中国に集中していたグローバルサプライチェーンを見直してリスクを分散したほうが良い、とかそんな内容です。

 

「コノナの脅威はいつ去るのか?」「コロナの脅威が去った後は世界がどう変わるのか?」

 

あなたは、どんな風に考えますか?

 

結論から申し上げると、コロナの脅威が去ることはないですし、世界は何も変わりません。

 

「アフターコロナ」があるのではなく、私たちがもともと目を背けてきた課題がコロナで露になっただけなのです。第二、第三のコロナは今すでに存在しています。それは感染症だけでなく、人間が生み出す不安や憎悪の連鎖です。コロナの脅威が去ったと思った後には、新たな脅威に怯えるでしょう。ヒトは、脅威から逃げることはできないですし、むしろ逃げてはいけないのです。

 

脅威をねじ伏せたり、根絶しようとするから新たな脅威に対する不安が生まれてしまいます。ワクチンで感染症を根絶することが人類の勝利などという発想自体が非常に実存的に思えます。

 

人類は不安を自ら生み出し、仮想敵をつくり、標的にするという歴史を繰り返してきました。戦争、人種差別、貿易摩擦、領土問題など、枚挙に暇がありません。その不安に立ち向かい乗り越えたつもりでも、未知なる脅威の前で無力感に苛まれるのが人間なのです。

 

そして、無力さを知っているからこそ、国家権力による制限と罰則が生まれます。一方で、その網目をかいくぐろうとする強者と弱者の乖離の構図がより鮮明になっているのが今の世界の姿なのではないでしょうか?

 

新型コロナウイルスがこんなにも恐いと感じるのはどうしてでしょう?

 

それは、いつ感染し、感染させるか分からないので、死の臨場感が高まるっているから。そう、映画の世界が現実になったのです。絶望と希望の境目が曖昧になっていて、絶望を希望と錯覚している人も多いのではないでしょうか?別の表現をすれば、虚構の世界と実態の世界が近づいている状態とも言えます。

 

また、コロナウイルスの感染は、全員が加害者にも被害者にもなりうると言う点で、戦争とは異なります。本当の意味での問題解決を目指すのであれば、お金やビジネスが入り込む余地はないはずです。

 

しかし、それはグローバル資本主義の中で生きる私たちにとっては、不可能に近いことです。病気になれば薬が売れ、店が閉まればネット通販が儲かるという構図があります。誰かの幸福は誰かの不幸であることが理なのです。

 

コロナが露にしたもの、それは過剰消費と資本の独占に目がくらんでしまったグローバリゼーションの顛末。自分にない資源や資本を他人から搾取するという人間の性から逃れことはできません。

 

ビュッフェで食べ切れないほどの食事を取って捨ててしまうことと、企業や国が必要以上に資本・資源を搾取して、公害や社会問題をつくっているのは同じ構図です。地球の公共物である「資源」を、人間が私物化し「私源」を生みだしました。その欲求が肥大化すれば、行き場のないごみとして「死源」になります。海洋プラスチック問題や放射性廃棄物処理の問題とタピオカ容器のポイ捨ては規模の差はあれ、同じ問題なのです。

 

今後は、スケールメリットをさらに追求する一握りの超大企業群と、非効率で手間暇かかる領域で成長する中小企業群に収斂されていくと思います。もしあなたが大企業で働いていようが、中小企業で働いていようが、どんな構造の中でお金を稼いでいるのかを俯瞰してみて下さい。

 

そして、そのお金の稼ぎ方は他社にマネできるものであれば、これからあなたがどうやってお金を稼いでいくのかを真剣に考えてみて下さい。あなたの会社が社会に存在する理由は何なのか、あなたがその会社で働く理由は何なのかを真剣に考えてみて下さい。

 

コロナウイルス禍は、社会に必要とされる仕事が見えてくる格好の機会ですが、人はまたその変革のチャンスにフタをしてしまうかもしれません。でも、そのチャンスに気づいている人もいます。

 

社会が良い方向に進むには、「余剰」が必要になります。

 

「挑戦の機会」や「思考の余白」「他者への配慮」と言い換えても良いです。「余剰」は「無駄」と同一ではありません。それを勘違いしている人が多いのが事実です。業務量の平準化、生産量の調整、生産性の向上・・・ そういった「無駄」を減らす発想では、組織も社会も内側から変わることはもはやできないのです。私の会社でも仕事量に関わらず就業時間内に全ての仕事を終える社員がいます。それは、仕事を時間とお金という制約の中で考えていることによるものです。

 

「余剰」には「時間」のように見えるものだけではなく、「想い」や「願い」「意志」などの見えないものも含まれます。むしろ、そういったものを大切にしていかなければいけない。少し、大袈裟な言い方になりますが、組織や社会に「余剰」つまり、自他を超えたものに託す行いを増やしていくことが、コロナの脅威が去ったことになるのではないでしょうか?

 

あなたは今回のコロナウイルス騒動について、どんな風に考えていますか?そして、どんな会社でどんな仕事をしていきたいですか?ぜひご意見を聞かせて下さい。

奥富 宏幸
\この記事を書いた人/ リーダーシップ&キャリアデザイナー

奥富 宏幸 - Hiroyuki Okutomi -